ADHD

ADHD - 経緯

 ADHDについて初めて医学的な記述がなされたのは1902年のことで、イギリスの小児科医スティルが「道徳的統制の欠陥」を特徴とする障害を「スティル氏病」と名づけて発表したことから始まります。彼は「道徳的統制の欠陥」は脳損傷や遺伝・環境要因によるものとして捉えており、その後、注意集中の困難さや活動・衝動のコントロールが出来ないのは脳損傷によるものである、と考える研究者が多くなりました。また、脳炎後に後遺症として多動が認められる症例もあり、多動と脳損傷とは密接な関係があるのではないかと考えられるようになりました。その後、周産期における脳損傷・ウィルス感染、出生時の低酸素脳症などとの関連も示唆されるようになり、微細な脳損傷が中枢神経系の機能不全をもたらす結果、多動などの行動面の問題や学習面の問題を引き起こすのではないかと考えられ、「微細脳損傷(Minimal Brain Damage :MBD)」という名称が提唱されました。

 1962年、脳損傷の有無を明確にするべく、「微細脳機能障害(Minimal Brain Dysfunction :MBD)」の名称に転換されました。そして、行動特性を主とする研究が盛んになり、行動面の問題と学習面の問題を個々に捉えようという動きになり、 1963年にサミュエル・カークが学習面の問題に対し「学習障害(Learning Disability :LD)」の名称を提唱しました。これにより、学習面の問題は教育分野で進展を遂げるようになりました。

 そして1968年、アメリカ精神医学会のDSM-U(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders :『精神障害の診断・統計マニュアル』)に、児童期における精神疾患としては初めて「子どもの多動性反応」が導入されました。

 

 1970年代に入ると、これまで多動に焦点が当てられていたものが不注意や注意欠陥に向けられるようになりました。1972年、カナダの心理学者ヴァージニア・ダグラスは、多動よりも注意が持続しなかったり衝動がうまく統制出来ないという欠陥の方が重要ではないかというような指摘をしました。1980年に出されたDSM-Vには、「注意欠陥障害(Attention Deficit Disorder :ADD)」が採用され、「不注意」と「多動」、加えて「衝動性」が互いに独立したものとして捉えられました。また、多動を伴うか否かで分類するものや、以前はADDの診断基準を全て満たしていたが、いづれかの症状が消えてしまったものを残遺型として挙げられました。DSM-Vは1887年に改定版DSM-V-Rが出され、「注意欠陥/多動性障害(Attention - DeficitHyperactivity Disorder :ADHD)」と名称も変更されました。

 その後、医療機器の大きな進歩を受け、脳の活動や神経レベル、遺伝子レベルの研究が可能となり、遺伝要因の関与や神経伝達物質のひとつであるドーパミンの欠如など、まだまだ仮説の段階ですが、発症因子が見出されるようになりました。1994年に出されたDSM-Wでは、「不注意優勢型」「多動性−衝動性優勢型」「混合型」の3つの類型が採用されました。



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